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ボフダン・フメリニッキー 像
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ロシアがウクライナに軍事侵攻して4日が過ぎました。
戦闘は激しさを増しているようで、ウクライナ市民やロシア、ウクライナ双方の部隊の犠牲者が増えるばかりで、一刻も早い停戦を願います。
今夜は、昨日に引き続き2013年、ロシアがまだクリミヤ半島を併合する前、首都キエフが平穏であった頃に牛男さんが仕事で赴いた際のキエフの写真をお届けします。
最初の写真は、ソフィア広場にあるボフダンフメリニッキー (1595年〜1657年)像です。ポーランド・リトアニア共和国の貴族で、ウクライナ・コサックの指導者であった彼の評価は、分かれるようです。フメリニッキーの乱を起こし、大国ポーランド・リトアニアから独立を果たしたものの、軍事的支援要請によりロシアの保護国となり、ロシアのウクライナ初進出と東欧進出の野望に繋がったとされるからだそうです。
そして、21世紀の今現在に繋がり戦争となってしまいました。
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聖ミハイル黄金ドーム修道院 |
こちらの修道院は、キエフの中心部に1108年から1113年までの間、スヴャトボルク公の時代に建てられ、その当時はビザンツ様式の大聖堂だったそうです。しかしながら大聖堂は、後にモンゴル軍やタタール軍により損害を被り1469年にウクライナ正教会の聖堂院として復元され、さらにその後17世紀には内装が改装され、大聖堂の外部はウクライナ国民の民族復興の時期に流行ったウクライナ・バロック様式と呼ばれる、白と青の色彩の壁に緑あるいは金のドームが特徴の建物になりました。
1936年スターリンの時代の正教弾圧のもとミハイル修道院はほぼ完全に破壊され、モザイク画と内部のフレスコ画のいくつかが難を逃れたそうです。
そしてウクライナ独立後、1994年にミハイル寺院の再建法が制定され1998年のキエフの日(5月の最終土曜日および日曜日)に鐘楼の完成式が行われ、寺院の往時のままの姿が再建されたそうです。
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黄金の門 |
こちらは、広く知られた組曲「展覧会の絵」の最後の曲「キエフの門」のもととなるものです。
1037年に建てられましたが、1750年に門を保存するために地中に埋められ、1832年に考古学者ロフビッキーにより発掘され、11世紀の外観に戻す研究がその後150年も続いたそうです。
1982年、キエフ建都1500年祭が行われた際に修復作業を終えたそうです。
こちらの教会の名前はわかりませんが、美しいシルエットのドーム型の屋根と、グレーと煉瓦色の色彩が寒空に映えて絵になる光景を作り出しています。
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国境警備の記念碑 |
今、キエフでも地方都市でも激しい戦闘が続いていると報じられ、
胸が締め付けられる思いです。
ハリコフではガスパイプラインも爆破されたと伝えられ、
温かいボルシチを口にするどころか、暖も取れず、
爆撃、銃撃に市民、戦いを余儀なくされている人々、兵士が命を落とし、命の危険にさらされています。
戦争を直ちに止めることを願います。