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2011年12月28日水曜日

希望の翼

22日に銀座に行きました。写真は、中央通りに並ぶ、復興を願う希望の翼です。4年前には、もう一生、普通に歩くことはできないと言われました。今は、ステッキ片手に横断歩道を渡り、銀座のショーウインドウを見て歩くことができるようになりました。
迎える年が、皆様に希望のもてる年となりますように。そして、今年もこのブログを読んでくださってありがとうございました。

2011年12月15日木曜日

ドラキュラ的生活

ドラキュラ的生活も3年半となりました。光線過敏で紫外線が全く駄目なので活動はもっぱら夜です。日中の外出は論外で、いかに自宅室内で安泰に暮らすかが私の日々の課題です。
 今年も7月後半から9月いっぱいは、特に辛い生活となりました。2年前に室内に完全遮光カーテンを取り付けました。カーテンレールに完全遮光布でカバーをつけるも、四隅、脇から光が漏れてくるため、1分と居られず、家の中で傘をさして暮らすという滑稽な状況でした。安住の場所は、窓のないトイレ前、洗面所です。
 昨年冬に、窓のサッシに直接完全遮光のカーテン布を貼り付け、窓を塞ぐという策にでました。これで、昼間は、完全遮光傘一本をさして眠れる。いえ、7月初めまでは、眠れたのですが、夏の熱さで、サッシ部分の遮光塗料が剥げて、光が漏れ始め撃沈。勿論、外側には完全遮光カーテンという最期の砦があるのですが、四隅、脇から漏れてしまうのです。その後、完全遮光布を取り寄せるも、放置したままに。布を張り合わせ、大きな窓に設置する作業は、とても難儀です。なんせ衰弱著しく、医師のよればこの手の病気の人は、夏の暑さで、病態が悪くなるそうです。その場しのぎに完全遮光傘を二本、バッテン印のように頭の上に広げて寝るものの、寝返り打てず、肩はコチコチに。そして、先月、介護事業所の方と木の窓枠に完全遮光布を貼る作業を終え、なんとか傘1本で昼間眠れるようになりました。
 さて、今年の進歩はもう一つ、ビオチンにより、股関節痛が大きく改善しました。4年ぶりに階段も上れそうなほどです。信号も次の青開始まで待たずとも渡れるようになりました。股関節の激痛は、光線過敏の症状が始まってからだいぶ和らいでいました。症状がスイッチした感じです。それでも杖歩行ですし、疲れると痛みは増すという状況でした。
 私の場合、ビオチン散0.2%「ホエイ」を1日0.5グラム服用しています。最初は恐る恐る半量の0.25グラムを飲みましたが、飲んだその日から、痛みがほとんどなくなった感じです。そもそも光線過敏がなんとか治まらないかと、医師に「何か、なにかないですかぁ〜」とすがるように申したのです。服用して半年近くになりますが、残念ながら光線過敏の方にはまだ効果は見られません。
 自己免疫疾患による関節炎、リウマチの方はビオチンを試してみる価値があるかと思います。
(写真は、先月10年ぶりに行くことができた二子玉川のデパート前です。)

2011年12月4日日曜日

となりの患者5

病棟で、お局様と呼ばれている老婆もまた入院している事が多いようだった。しかし、おもしろ話8(となりの患者)のとなりの患者と決定的に違うのは、確かに時々は退院していることだ。なぜなら退院の時、私はもう一人の患者と、タクシー乗り場まで、お見送りに出たこともあるからだ。
 病棟でただ1人、シルクのパジャマを着て、バーバリーのサンダルを履いていた。ドラマ「下流の宴」のモデルではないかと思われるような人だった。最もドラマの主人公由美子ではなく、由美子を育てた母親(野際陽子が演じていた)に酷似しているのだ。由美子の母親は、医師である夫を若くして亡くし、補正下着を売って、娘達を大学まで出したという設定だった。由美子の母親は、貧しく暮らす、由美子の同級生をあっちに住む人と言いさげすんでいた。
 お局様も若くして開業医である夫を亡くしながらも、娘達を私立大学の医学部を出したというのだ。お局様は、補正パンツを売って娘達を医師にしたのではないようだけれど。お局様の父親も開業医だったそうで、察するところ、親の資産で娘達を育て医学部を出したのではないかと思う。
 お局様は、人類を「医師」と「医師でない人」とに分けて考えていた。看護師を今だにあえて「看護婦」と呼び、看護婦なんかと結婚する医師を「あちらの方」と言うのよと。お局様によれば、一流の医師は女医と結婚するというのだ。お局様ご自身は、医師ではなくG大学をご卒業の、いわゆるお嬢様なのだが。「昔はそういうものでしたもの」とおっしゃるのだ。
 お局様と病棟廊下で会うと、いつもお局様が一方的に、至らぬ婿殿や看護婦の話をする。お話が終り、お別れの時、何故か私は「ごきげんよう」と言ってしまっていた。

2011年11月19日土曜日

となりの患者4

診察を待つ間、待合いの椅子に座るとなりの患者、靴を脱ぎ捨て右足を左の足にちょいと伸せて、足裏ツボをぐいぐい押している。
私もやりたいけれど、まだその度胸がありません。

2011年11月15日火曜日

おえらいナース2

今日は、ほんとうにおえらいナースのお話です。
今から7年ほど前、ある3次救急病院の消化器病棟でのことです。
師長さんが、毎朝看護チームと一緒に各病室を回り、患者一人ひとりに「おはようございます」と声をかけるのでした。
その時、師長さんは、患者の顔をしっかりと見ていました。くどいですが、師長さんが出勤の日、毎朝の事です。
師長さんは、看護師の朝の引き継ぎも、聞いているのか、「辛くて大変でしたね」と容態について触れることもしばしです。
 大病院の師長は、師長室から滅多にお出ましにならない事も多く、患者が初めて入院してきた時に病室に挨拶に来る程度だったりするのです。
この消化器病棟の光景は、母が、重篤な状態が続き、母の病室に通算5ヶ月間、泊まりこんで目の当たりにしたものです。夜中もほとんど眠れないので、朝起きるのが辛かったのですが、看護師さんチームと師長さんがやってくる前には、私も着替えをすましていないと、看護師さん達に申し訳ないという感じでした。
その病棟では、看護師だれしもが患者本位に業務を遂行することが徹底されていて、労を惜しまず献身的に働いていました。そして、看護師は、お年寄りには特に優しく接していました。当たり前のように。「良い日もあれば、悪い日もあるものですよ」と患者の心にも寄り添うように、容態が悪化して落ち込む患者には慰めの言葉をかけていました。
 しかし、そんな病棟も、それより10年前は、全く違っていました。その時の看護師1人を除いては、師長を始め新しい看護師さんに変わっていたのです。病棟を支えているのは看護師であり、まさに看護は「人なり」です。
 今でも、7年前の温かくりっぱな師長さんや懸命に働く看護師さんとの毎日が鮮明に思い出されます。残念ながら、その折り、私は発病し、その時の師長さんにお礼の挨拶に伺えないのが、とても心残りです。
(今日の、このブログを病院関係者が読んで下さって、このおえらい師長「私だわ!」この看護師「うちの看護師だ!」「私達のこと!」と思い当たる人がいっぱいいたら、あんこはとてもうれしいです。)

2011年10月18日火曜日

患者心得5

引き出しが沢山ある医師はいる。
引き出しがまるでない医者は、いっぱいいる。
タコ先生は本日学会のため休診です。

2011年10月14日金曜日

入院心得4

いびきの患者に、口頭で注意をしてはいけません。
いびきが、けたたましく響いているまさにその時、ベッドの枠を杖で叩く、杖がなければ空のペットボトルで思い切り叩きましょう。
ポイントは二つ、まず、いびきの最中に叩き起こすのです。最中というのが肝要です。いびきの張本人が目覚めての事後になって、まともに抗議してもエンドレスの口論、いえ喧嘩になっておしまいです。
「いびきのどこが悪いんじゃい!」「誰だっていびきはかくわい!」と言い返される。そして、いびきの程度は、説明のしようがなく「アンタのいびきは猛獣のようだ」などと言っても「おおげさだ!」という具合です。あげくに「私は病人だ!」と言われて、「こっちも病人だ!」とエンドレスのバトルになります。
二つ目のポイントは、杖などで叩き起こすことです。口頭で注意をするよりはるかに疲れず、かつ、誰が叩いているのかわからず、後々「しこり」が残りません。大抵ベッドはカーテンで囲まれているので、叩いている人の顔は、わかりません。
これは、病棟にいつも入院している「お局様」と言われている老貴婦人から教わりました。即、実践したところ、大いびきをかいている人は、ぐっすり眠っているので、起きた後、何が起こったかわからないようです。従って、私は悠々とトイレに向かい、トイレから戻るといびきは止まっていたのでした。

2011年7月25日月曜日

下流の宴に思う

黒木瞳が扮する由美子が言う「私は、医者の娘として誇り高く育てられました」
その由美子の息子と交際を反対されている恋人珠緒が言う「医者ってそんなに偉いんですか」
林真理子原作の小説がテレビドラマ化されて放映されている。
私は毎回見入ってしまった。
そうなんです。医者って偉いんですよ。だからこのブログがあるようなわけです。医者は上流階級であり、居酒屋をやっている母親に育てられた高卒の珠緒は下流だというのだ。
ドラマを見ていて、いろいろな事を思ったり、思い出したりした。
その一つは、病院の駐車場が、さながら外車の品評会のような事だ。お見事なほど、ずらりと並ぶ外車群。それらは、言うまでもなく医者が通勤に使っている、医者のものだ。
患者や病院関係者には、当たり前になっているこの光景を思った。
 折しも、優勝したなでしこジャパンの選手への報奨金を、スポンサーのキリンが100万円に増額したという。何が欲しいですかという問いに、選手の一人が軽自動車を買いたいと答えていた。なんと可愛いことか!

2011年7月23日土曜日

祝!なでしこジャパン

死闘を制した、なでしこジャパン、おめでとう!
被災した人たち、病で苦しむ人たちが、生きる希望と勇気をもらえたと思う。あきらめない気持ちが道を開くと教えてくれた。
数日、勝利に酔っていたけれど、今やまた現実に戻っている。
けれど、あの120分は無心になっていた。その時間だけでもありがとう。

2011年2月14日月曜日

おえらいナース

 今日は、ある病院(3次救急)でのKさんの「見るだけ湿布」のお話です。
Kさんは、もともとリウマチで、その病院にかかっていた。ある日、膝の痛みが増し、熱も高くなったため、入院となった。
熱がリウマチによる熱かどうか、まず検査をしてからと、連日検査でぐるぐると院内を回って検査を受けていた。そんな中、Kさんはノロウイルスに感染してしまった。以前入院で一緒だった顔見知りの青年患者に、院内でノロウイルスが流行出しているらしいと聞いた2日後だった。青年も罹患したのか、その話をしに来てからKさんのところにぱったりこなくなっていた。
 リウマチ治療はペンディングになり、まずはノロウイルスの治療となった。すると、やはり膝がどうにも痛くて辛い。せめて湿布が欲しいと看護師に言ったそうだ。すると湿布を持ってきた看護師が言った。「いいですか、湿布はここに置きますが、使わないでください。」「使うと、病院に費用がかかるので」Kさんは、だから湿布が使えないと私に電話してきたのだ。
 湿布を持ってきたけど、使うなとはどういうことか?湿布は貼るのではなく、見て眺めるもの?見ているうちに、貼った気分になり痛みが和らぐという事なのか?
昔、一人暮らしの貧乏学生が、おかずを買うお金がなくて、魚の絵を描いてご飯のとなりに置いて、ご飯を食べているという話を聞いたことがあった。私はその話を思い出した。
 病院のコスト管理意識が現場看護師にも浸透して、たいしたものだ。

2011年1月28日金曜日

入院心得3

 病棟ごとに看護師のカラーは違うものである。
 従って、前回入院した時、看護師さん達がわりと親切だったから、今回もと思うのは大きな間違いである。
 前回は消化器で、今回は整形というように、かかる科が異なる場合は、大抵病棟も異なる。各病棟は、師長や主任といった看護要員のトップや実践部隊の指揮官の色に染まるものだ。白衣の天使の組織もあれ?ば、ぐーたらナースの部隊だってあるのだ。

2011年1月1日土曜日

ぐーたらナース5

 隣のベッドの原さんは、毎日食事が摂れないようだった。2人部屋で私が入院した時、すでに原さんはいた。最初は言葉を交わしたけれど、日に日に衰えて行くようだった。そして、隣からため息だけが聞こえてくるようになって、数日すると、原さんは「トイレまでとても歩けそうにないわ」と弱々しいく言った。私が、ナースコールで看護師さんを呼んで付き添ってもらうように言うと、原さんはナースコールを押したようだった。
 すると、やってきたのは、おそ松副師長(ぐーたらナース4)だった。おそ松副師長は、原さんの身体を支えるでもなければ、手を取るでもなく、よろめいた原さんは、壁をつたいながら、スリッパをひきずって、恐るおそるという感じで病室を出た。その後、原さんは、なかなか戻ってこなかった。どうしたのだろうと心配していると、賑やかな人の声とともに原さんが戻ってきたが、原さんは車椅子に乗っていた。そしてなんと、驚いたことに、その車椅子を押しているのは、パジャマ姿の患者達だ。トイレの前で倒れているのを、他の患者が見つけ、車椅子を探し、患者3人でなんとか車椅子に乗せて来たというのだ。
 おそ松副師長は、原さんをトイレに入れた後、いなくなり、用を済まして出ようとした原さんは、ドアを開けてそのまま倒れてしまったらしい。トイレの隣は、ナースステーションだ。しかも、ナースステーションとトイレはつながっている。一体ナース様達は何をしていたのだろう。(登場人物の名前は全て仮名です)