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2012年12月31日月曜日

反省

晦日、私の活動時間の夕刻以降は、どしゃぶりの雨となった。
年賀状の作成は、プリンターの故障で今夜、大晦日の勝負となる。
紙袋いっぱいの紙をなんとか惜しみなく捨てることができた。
ほとんどが領収書だ。友人は、一層、断捨離ブログにしてしまえと言う。エディターだった友人の助言は素直に聞くべきと思いつつ、踏み切れない。
 今年は、不満と嘆きばかりだったことを今日になって反省している。
歩けるようになった去年の感謝の気持ちはどこかにすっとび(希望の翼)、夜しか活動できない暮らしの不満が募るばかりだった。来年は、どうしたい、こうしたいは今は考えられないのが正直なところ。心底、ひたすら光線過敏が軽減されることを願っているのだけれど、叶わぬことを思い続けてもむなしさとストレスで押しつぶされそうだから。
今年も、このブログを読んで下さった皆様には本当に感謝いたします。
皆様も良いお年をお迎え下さい。そして、来年もよろしくお願いします。


2012年12月27日木曜日

ひな壇に並ぶシクラメン

入閣した新閣僚のようだ。
国民の視線はともかく、ご本人達の心中は、華やいでいることだろう。

2012年12月26日水曜日

クリスマス

小田和正の恒例番組『クリスマスの約束』を見ながら、過ごしている。小田和正の透き通る声、賞味期限の切れた透き通った珈琲を堪能した。小田和正の曲だけでいいと思いつつも夏の歌の選曲は良かった。大貫妙子の『夏に恋する女たち』が懐かしかった。この番組も12回目だそうだ。子供の頃、母に手をひかれて通った小田薬局が小田和正の実家だと知ったのは、ほんの数年前のこと。サンスターのグリーン歯磨き(正確な名前は忘れたけれどペパーミント色のペーストだった)を小田薬局で買っていた。毎日ブログを更新して、迫り来る通院の憂鬱をごまかしている。

2012年12月25日火曜日

29歳のクリスマス

『29歳のクリスマス』再放送が終わってしまった。
クリスマスイブなのに、グリーンピースご飯と鮭、湯豆腐というディナーより悲しい。北川悦吏子育ちという人がいる。北川悦吏子さん脚本のドラマを見て育った(成長してきた)ということだろうけど、そういう言い方をすれば、私の場合は鎌田敏夫育ちだ。29歳のクリスマスが再放送されるたびに、29歳の時の自分に戻れる。一層、夏でも再放送してくれ!と言いたくなるぐらいこのドラマが好きだ。『俺たちの旅』と永遠に交互に再放送してくれたならどんなにハッピーだろう。セリフがたまらない。キャストの山口智子が、松下由樹が柳葉敏郎が上手い!
本放送の時、一緒に楽しみに観ていた友人に、「今日が最終回よ!見て」とメールすると、「子供は、まだ学校が休みじゃないのよ。見たら明日起きられない」と返事が来た。あの頃、ドラマが終わると電話で熱く語ったのに。子供は勝手にランドセルを背負って、パンでも食べて学校に行くものじゃないのか?ないのかぁ。現実は、29歳からはるかに遠い。

2012年12月24日月曜日

昨日、サッカー天皇杯準々決勝4試合をテレビ観戦した。うち2試合は録画放映だったけれど、見終わった夜10時過ぎ、外出すると寒空に張り付いた月がサッカーボールに見えた。
 昼間の試合は、ほとんど夢の中だった。普段は寝ている時間だから。ガンバとセレッソ戦は延長戦に突入したまでは記憶があるけれど、延長戦でガンバが得点した折り、これでガンバの試合が最低でも1試合観られると思った安堵からか、その後のことはわからない。鹿島と千葉の試合は、さっぱりだ。馬がフィールドを悠々と走り、それとは無関係にサッカー選手が必死にボールをつないでいる夢を見た。気が付くと、テレビ画面は競馬中継になっていた。夜の録画放映は楽しめた。連勝続きの大宮が、試合を決めるように思われたが、昨年のJリーグ王者の意地を見せた柏が追い上げ、ロスタイムにストライカーの工藤が決勝点を決め、これぞサッカーと思わせてくれた。マリノスとグランパスの試合は、じれたけれどPK戦にもつれ、元日本代表同士、玉を置き玉の前に立った中澤とキーパー楢崎の画には息を飲んだ。

2012年12月19日水曜日

13年ミート

それはまさに出会いだ。
13とは2013年なのか?だとしたら私への未来からの贈り物。
それはまた、冷凍庫から出てきたモノ。
牛挽肉の一塊。
13.7.7製造13.7.8消費期限のシールが付いている。
意味がわからずに、しばらく時間が止まったようになってしまった。
未来からの贈り物でもなんでもない。過去の遺産だ。
記憶をたどれば、平成13年7月7日に私はここに住んでいなかったか、引っ越して来た日だ。
この小さな塊を、線路の向こう側の木造アパートから、引っ越し屋さんのトラックに乗せて運んだのか。ため息がでるほどのしみったれぶりだ。さすがに今は、それを食べる勇気がない。
しかし、この負の遺産も、
引っ越し記念品だと思うとまた捨てられなくなる。引っ越しの並々ならぬ思い出が沸いてきて、もう捨てられない。職場の机の引き出しの中にはいつも胃薬の瓶が3つ並び、終電に駅の階段を駆け上がり、毎日毎日ゆで卵とウインナーだけのおかずの弁当を寝ぼけ眼で詰めて、気が付くと洗顔フォームで歯を磨いていた。妙な味とひどい泡に「げっ」となった。昨日と今日の区別がつかないくらい働いた。アパートの階段をころげるように降りたら、ヒールの高さが右足と左足で違っていておまけに靴自体の色まで違っていたり。飲めない酒を飲んでこらえて家でゲロを吐いて・・・涙涙のサラリーウーマン時代にやっと手に入れた今の住まい。
ここは思い切って決断しないと新しい年は迎えられないだろう。
今宵も、遅ればせながらの「断捨離」です。

2012年12月1日土曜日

限りなく黒に近いブルー

ブルーだから病気が悪くなるのか、病気が悪くなるからブルーになるのか、どっちやねん!
 ある朝起きたら、右手がグローブのようになっていて、こわばって思うように動かない。これは起こりうる症状だけれど初めてなので、ショックで少し呆然となった後、混乱した。光線過敏がなければ、直ぐに家を飛び出して、犬のようにはぁはぁしながら、自宅の周りを三回歩き回るのに。しばらくして治まって、原因を考えた。原因と言ったところで、そういう病気なんだから考えても仕方がないが、子供のころから考えても仕方のないことをぐるぐると止めどなく考える。前の晩、酉の市に行ったのだった。参拝客の列は蛇のとぐろのようにぐるぐるとうにゃうにゃと狭い境内の中を幾重にも重なってはみ出てやきそば屋台の脇を突き抜けて、さらに曲がって折り返していた。結局、1時間近く寒い思いをしたのだった。医師は、暑すぎるのもいけないし、寒いのもまた病気を悪くすると言っていた。この世に神も仏もないとはこのことだ。1時間待って、30秒間、ひたすら病魔撃退を祈念したのに。おまけに、小さいながら熊手まで買ったのに。
 翌晩、ブルー打開に、かねてより予約してあった美容院に髪を切りに行った。夏の間は、日が長く、髪を切りに行くこともできない。香里奈さんを目指していた髪は、いつしか椿鬼奴 さんになり、既に連獅子の獅子の髪のようになっていた。髪が濡れると頭がぐらつくようになっていた。髪を切って、頭が軽くなって、近くの東京タワーを見たら、気持ちが上向くかもしれないと思った。しかし、あまり効果はなかった。片田舎から上京して、東京タワーを間近に見ながら大都会東京で働く喜びに胸が躍った昔を思い出して、とてつもなく情けなくなって、気がつくとひたすら、下を向いて南に南に歩いていた。

2012年11月14日水曜日

仕方なく断捨離

断捨離は、順調ですか?という友人からのメールに、何それ?と考えた。今日のチラシ、昨日のチラシ、その前の・・・・いつから散らばっているのか、チラシがカルタように広がって足の踏み場もない状態だ。既に床の木肌は見えず、チラシを踏んで滑っていた。ああ、そうだった当月初めは断捨離のことを記したのだった。
 06年消費期限の挽肉を捨てた後、魔の通院だった。通院数日前から徐々にブルーになって、無事に帰宅した(私の通院)後、ますますブルーになった。治らないとわかっているのに辛い思いをして通院することのむなしさよ、これを徒労と言わずして何を徒労と言うのか。頭の中は、3年前に正式に認定を受けた、舌をかみそうな長い病名でいっぱいになっていった。この病名だけは、すらすらと言える日はこないだろうと思いつつ、しかし、いつしか病名もすらすらと言えるようになり、それがまた悲しい。
 そうか断捨離かぁと。収納庫から賞味期限09.02.05のメンマの小瓶を出した。たぶん甘辛味で、ラーメンに載せたら美味しいだろう。3年前が 賞味期限のものは、私としては許容範囲の気もするような「若い」お品だ。テーブルにおいて、眺めている。
 しかし、今日のチラシを捨てることの方が先じゃないのか?テーブルの上に飾ってある、深紅を通り過ぎて黒く変わっている薔薇を捨てる方が先じゃないか?いやいや先週買ったばかりだけど捨てると決めたシナモンが先か?
シナモンの話はまた別の機会にするとして、要するに、ブルーを理由に今日のチラシすら捨てられないから、93年期限の食品が眠っているわけだ。本日は、黒い薔薇とチラシの何枚かを捨てることにするか。

2012年11月11日日曜日

マスク着用開始

先週の日曜日、女子会で品川まで行った。行き交う人々が、咳をふりまいて歩いていたので、マスク着用開始を誓った。
06年の入院の終盤戦で親しくなったご婦人とそのお嬢様との会食の運びとなった。初めに、美味しい大きな海老天丼の店を提案されたのだった。しかし、その店は、天使の輪のような蛍光灯が鼻の先までぶら下がっていることがわかりアウトとなった。そして、品川の天ぷらのお店となった。真新しい大きなビルには、品川水族館を想わせるイルミネーションが輝いていた。3人が注文した天ぷら定食の海老は、小指ほどの小さなちいさなものだったけれど美味しかったので、やれやれ。何しろ、私の光線過敏のせいで、時間は夜、お店はハロゲンライトの店となったのだから、美味しくなかったら立つ瀬がない。
 魚のイルミネーションを見て、昔むかしの事を思い出した。母が入院していた時、同室に居酒屋のママがいた。居酒屋のママらしく、ママは医師に魚の名前をつけた。戦闘的で、いつも、どしどしと病室に入ってくる、顔が長い医師をカマス、物静かな小柄な医師をメダカ、顔が四角い医師をヒラメと名付けた。カマスもメダカも中堅医師で、メダカは内視鏡で結紮する処置がすこぶる上手いと評判だった。ヒラメは大学を卒業して間もなかった。居酒屋のママの主治医はメダカで、ママがベッドの上で大きなクッキーの缶を抱えてむしゃむしゃと食べているところに、メダカが入って来ると「メダカだ!」と言って缶を布団でかくしていた。シュークリームの時にはどうすることもできず、メダカに見られてしまったが、メダカは、何も言わないで、少しにこりとしていた。シュークリームを差し入れたのは、私だったので、私も一瞬ひやりとした。ヒラメは、新人らしくいつも大人しかったけれど、となりの患者が「先生もS大学出身ですか?」と聞いた時、ヒラメはいつもかけているマスクを外し「いいえ!J大学です」とやや大きな声で答えたのが印象的だった。
 それから時がずいぶんと流れて、メダカは開業し、カマスは北部の方の基幹病院のセンター長まで勤め退官したと風の噂で聞いた。今、ヒラメは、医局の中を上手くひらひらと泳いでいるだろうか?

2012年11月8日木曜日

酉の市




豪華絢爛な熊手。
本日は、通院だったので、よれよれで言葉がありません。










2012年11月4日日曜日

病院の新設はとっくの昔から規制されているんだけどなぁ

大学の新設の不認可が、唐突に決まって物議をかもしている。
病院は、はるか昔、昭和60年の医療法改正で実質的には新設されることはなくなっている。
 おおざっぱに言えば、病院の場合は各都道府県が人口等を加味して、定めた医療圏ごとに必要な病床数を定め、オーバー区域では増床が認められないのだ。ほとんどの地域で、既に法改正の時点で病床過剰となっており、特別な場合を除いては、新設はもとより、増床も認められなくなっている。
 病院と大学では社会的に果たす役割は違う。
しかし、少子化が言われて何年になるんだ?これまで新設大学が認められていたことが、どうかしている気がするけれど・・・・
 えっ、近所にクリニックができたけど?と言う人がいるかもしれません。以前にも書きましたが、クリニックは診療所であり、医療法上病院ではありません。

2012年11月2日金曜日

遅ればせながら断捨離

添加物の入った食品は食らわないようにしている。
リコピン、カロティン、ポリフェノールを多く含む食物を沢山食べるようにしている。
厄介な病気を患ってからの事だけれど。
しかし、腹はいつも12分目。
食品の消費期限、賞味期限は気にしない。これがいけないのか?
冷凍庫の中に06.2.26消費期限と記しのある牛挽肉の塊が二つある。06とは2006年だ。買った後、入院してしまったのだ。
処分しようかどうしようか迷っている。数ヶ月前から。
友人にメールで意見を求めると、ムンクの叫びのような絵文字が返ってきた。誰に尋ねても、捨てろ!と言われるだろう。
昔、賞味期限が数年前に切れている、マヨネーズが20数本、ケチャップが10本以上、ソースが10本ぐらい出て来たことがあった。
我ながら、どうして1人暮らしの住まいにこんなに沢山の調味料を買い込む必要があったのだろうと思う。ある日、遊びに来た両親がそれらを発見して、仰天し、処分してしまった。「止めて〜」と懇願する私に、ケチャップとおソースだけ数本残してくれた。しかし、「このウチで食事は絶対しない。恐ろしいウチだ!」と両親に言われた。
その母も亡くなり、もはや処分してくれる人はいない。
ロンドン五輪の前に、93年が賞味期限の、クックドゥを10箱捨てた。在庫が悪という認識もなかったのだろう。
遅ればせながらの断捨離です。今宵は06.2.26消費期限の挽肉を捨てることにしよう。



2012年11月1日木曜日

冬至?

夏の赤いキョウチクトウの花も、真っ暗闇夜に溶けて見ることができない。
夜、咲いていることがわかるのは、白いクチナシの花ぐらいだ。
公園で、赤い花を沢山つけたキョウチクトウの木が、夏の風に大きく揺れたのを見たのも思い出だけになった。
夜しか外に出られないというのは、こういうことなんだなあと、しみじみ寂しい。
季節は、店じまい間際の花屋のウインドーで知る。
10月に入ってカボチャが並んだ。今日はまた新しいディスプレイになるのだろう。

2012年10月26日金曜日

帽子

人生を振り返るように、冬の帽子を数えてみた。
ざっと20個。
バブリーな時代のものは、クラシカルなデザインで値段も高かった。10年ぐらい前からカジュアルなものが主流になって、私も倣ってウールの布やフエルトでもつばが切りっぱなしのものを被るようになった。
ユニクロの服に英国貴婦人の帽子というわけにはいかないのだ。
昨年、歩けるようになって百貨店で4つ目の帽子の箱を買った。その時、昔の帽子は捨てようかと思うが、思い切れないと店員さんに言うと、「帽子は捨てない方がいいいですよ。また流行が巡ってきますから。」と言われた。
確かに、今年はまたクラシカルな感じになってきた。昔の帽子のいくつかは被れそうな感じだ。洋服の流行は、大きなトレンドは巡ってくるけれど、ディーテイルが違って、再び昔の服が着られるということはない。
帽子は、大抵無地だし、色もクロ、茶、ベージュ、白、えんじ、紺程度だ。ディーテイルと言っても、つばと頭の形、リボンに変化をつけようにも知れたものだ。
 しかし、これらの帽子もみんな夜のお出かけのお供だ。夜、白熱灯の光は防いでくれる。日のあるうちは、外出できないわけで、通院の時は、特別な完全遮光布の虚無僧の被るような、広いつばであたりが見えない特別な帽子だ。つくづく、帽子には縁が深いのかも知れないと言えば、気持ちが納まる?いや治まらない。夜だけしか歩けないのだから、お供の大事な帽子が色褪せないでいいと思えば気持ちが収まる?いや治まりゃしない。
クラシカルな帽子を普通に昼間被って歩いていたのは、遠い昔のこと。

2012年9月20日木曜日

患者調査

厚生労働省が3年に一度実施している患者調査によれば、通院する病院に満足している患者が49.7%と5割に満たないそうだ。しかも、この満足している患者の割合は、約10年前の平成14年調査でも、全く同値の49.7%だ。医療機関でCSと言われて、20年は経ったろうか?
 病院に不満足なのは、あなただけではない。そして、「病院の体質」は変わらない。

2012年6月23日土曜日

患者心得9

病人の命の手綱は医師が握っている。

2012年6月22日金曜日

患者心得8

医師のプライドはアルプスより高し。

2012年6月21日木曜日

芍薬

芍薬の咲く季節に、まあまあの調子に戻りやれやれだ。4月に家電量販店に行き、1時間半あまり、蛍光灯にさらされてから、体調は急降下した。夜なので、油断して、遮光の上着を着ないで出かけたのだった。
目的は、UVカットの蛍光管と紫外線が出ないLEDのテレビの購入だった。皮肉なことに、家電量販店自体の天井には紫外線がガンガン出る蛍光管が天井にぎっしりだった。スーパーなどは、昨年の節電から、蛍光管を全部はつけていない為、逃げ場がある。しかし、家電量販店には、全く逃げ場がなかったのだ。UVカットの蛍光管はH社しか製造していない。H社とあまり取引のないY家電量販店で、蛍光灯の担当者がカタログ探しから始まり、目的の製品を探し当てるまで、相当な時間がかかってしまった。途中で、ぐったりしてきたが、担当者の必死な様に「もういいです」と言えなかった。その後の体調不良にこの日の事は未だに後悔し、蛍光灯を甘くみていたことに深く反省もしている。
目的の蛍光管、テレビは購入できたけれど、テレビは、左下隅の電源ボタンが、蛍光灯のようで、早速見ていたら、首に痛痒い発疹ができた。ビデオケースを立てても防げず、使用しなくなったテレビのリモコンを立てて防いでいる。
本題の芍薬の美しさは一瞬だ。くしゃくしゃの花びらは、どうしていいかわからない、混乱するほどの美しさだ。一層食べてしまおうかと思ったりする。昨夜、くしゃみをして、真に残念、はなびらは、見事に散ってしまった。

2012年4月8日日曜日

夜桜4年

ああ、明るい空にゆれる桜が見たい。

2012年4月7日土曜日

心、ここにあらず

先月末の受診。医師は淡々と検査結果を説明し、どこか気ぜわしい感じだった。
病気の事を尋ねても、通り一遍の返答でおしまい。これまでとは明らかに違う対応だ。
 そして、ついて出た言葉は、「4月で異動になりますので」だった。前任の医師が異動して、替わってわずか1年なのに、またしても。
そう、医師も組織の人。

2012年3月29日木曜日

お揃いナース

朝7時50分、病院建物の外、入り口にナース達がずらりと並んで立っている。総勢20名程度だろうか、圧巻だ。
まだ寒い中、ご苦労なことだとは思う。皆様、声をそろえて「おはようございます」と叫んでいる。演劇部の発声練習のようだ。
前回の受診の時は、別の建物から入ったので、でくわさなかった。
しかし、昨年の11月だっただろうか、同じ建物から入った時は、やはり皆様お揃いだった。時節柄、私は、共同募金への協力の呼びかけだろうと思っていた。
タクシーで乗り付けて、料金を支払いながら、あたふたと降りる支度をする。紫外線を防御するための、手作りお面をたたみ、腰から下を覆う大きな遮光布をはずして丸めて袋に投げ入れる。たたんでいる間などない。降りる時、高い段差があって、杖をつくのが難儀だ。当然のようによろめく。
荷物の一つでもどなたかが、持ってくだされば、車からラクに降りることができる。20名に及ぶナース達との距離はわずか2メートル程度だ。
つばの長い帽子を被っているし、一秒でも早く、紫外線から逃れるべく建物に入りたいので、拝顔ままならない。従って、各病棟の師長なのか、ひよこ看護師なのか、普通の看護師が各病棟から1名づつ毎日交替で出てきているのか、わからない。
朝のナース達の患者お出迎え?、ご挨拶は有り難いような、そうでないような、意味があるような、ないような。

2012年3月15日木曜日

私の通院

通院は格闘だ。格闘と言っても、もっぱらやられっぱなしだ。敵は勿論、紫外線。私は、全く反撃できず、プロテクトアンドプロテクトアンド、プロテクトだ。自宅から病院に続く道は、歌のせりふのように一本道で、南下、朝ひたすら東の左から攻撃をくらう。タクシーで十数分だが、1時間に感じる。不幸な事に、道の両側に障害物がない。帰途は、背中から強くなった敵のパンチを受けつづける。
光線過敏が始まった当初、プロテクトの方法もわからず、SPF30程度のクリームで、それはもうほとんどプロテクトにはならず、その頃の跡が消えることなく、九州や鹿児島の島々のような形のシミとなって残り、女心を奈落の底につき落とす。ちなみにSPF50でも安物は、全く頼りになりません。
プロテクトの方法は、もっぱらネットから得た情報と自己開発だ。友人にも多大に協力してもらっている。顔に着装するマスクをネットでとり寄せたが、着脱に難ありで、顔に塗った日焼け止めが着脱の度に落ちる。育児に多忙を極める友人が改良してくれたけれど、根本的に息苦しい。筒型をしたそのマスクは、ニットの生地で目の下(サングラスの下)あたりで、ヒモを締め、目の下から首までをガードするものだ。しかし、ヒモもきゅっーと絞めるため、ヒモが日焼け止めクリームを取り去ってしまう。息苦しいので、紫外線の入らないところでは、どうしてもマスクをはずしたくなってしまうのだ。
そして考案したのが、手で持つプロテクト板だ。解体した牛乳の紙パック2つを顔を覆う大きさに張り合わせ、完全遮光布を貼り付けたものだ。両手でその板を持つので手が塞がるという欠点はあるが、少なくとも、車中はどうにかこうにかプロテクトできる。
上着は、これまたネットで主に完全遮光の傘を販売しているところで、傘と同布でできているパーカーを取り寄せて着用。しかし、丈が短い。腰から下は、完全遮光傘のショップが紹介している、これまた完全遮光のカーテンの店(京都)でお願いして、完全遮光布で130㎝四方の風呂敷のようなものを作ってもらい、腰から下を覆っている。帽子は、パーカーの店で、12㎝のつばの完全遮光の帽子を被る。これは、虚無僧の被る天蓋のようになるので、辺りがあまり見えず、歩く際、人や物にぶつかるので要注意だ。ちなみに、完全遮光の布は全く通気性がないので、真冬も半袖のTシャツの上に着る。サウナスーツを着ていると言ったものやら、ビニールハウスを背負って歩いている感じとでも言おうか、両者ともに経験がないから、適切ではないかもしれないが、大量の汗が噴き出てくるのだ。まじめに、今夏は下に水着を着ようかとも思っている。
先日、ネットで同病の人が、やっとの思いで、大学病院に行ったら、「頭にはヘルメットを被るとか・・・」と医師から言われ、それ以外にためになる指導はなく、紫外線に当たって通院したため、その後具合が悪くなって(大抵は、免疫疾患だから、紫外線で疾患自体が悪化する)散々だったとあった。ヘルメットに思わず苦笑してしまった。しかし、どこの医師もその程度だ。そもそも光線過敏の専門の医師は、ほとんどいないわけだから。
よって、通院日の前の週から、ブルーになる。先週末も、通院だったが、紫外線が強くなったせいか、通院後、未だにかったるくて仕方がない。

2012年3月7日水曜日

昨夜


 恵比寿ガーデンプレイスで食事をした。恵比寿駅から歩く歩道、スカイウオークで5分ほど。杖の私は、下調べをして、動く歩道にやった!と思っていた。5年ぶりに歩けるようになり、いろいろな所に行きたくてたまらないけれど、まだまだ慣れない。杖をついて、スカイウオークの端に乗り、じーっと立って、通路の窓際に置かれた、盛りを過ぎた赤や白のシクラメンが流れていくのを見ていると、歩く歩道を歩く人々が次々とぶつかってくる。邪魔なんだよ、と言わんばかりに。一層スカイウオークを降りて、通路をマイペースで歩こうかと思った。娑婆は、こんな感じだったかぁ、と7年ぶりに、しみじみ世間の風を感じた。
 お店は、39階でぐるりと窓だ。日頃、窓を塞いで籠もって暮らす、私に配慮して、友人が夜景を見渡せるイタリア料理の店を予約してくれたのだ。友人と言っても、それは私だけの思いであって、彼女は知人と私を突き放す。ともあれ、店内は、かなり暗く、高い天井にハロゲン?ライトの小さいのが、ところどころついているだけで、重い光線過敏の私には、絶好の環境だった。夜景を引き立たせるように店内を暗くしているのだろうけれど。私としては、もうこれだけで十分。帽子を取れるし、サングラスもはずせるから、解放された感じだ。テーブルには、小さなろうそくがともされた。店内環境とロケーションに大満足すると同時に、心の中で、こういう店は味が、いまひとつだったりするんだよなと思っていた。
 しかし、料理もとても美味しかった。スマートでさりげない味でこれまた満足。イタリアンにありがちな、こてこてではなく、料理上手な素人が作ったような、よく言えば家庭的な味とでも言えばいいのか、と言うのでもなく、ちゃんとプロの味だったのだ。スタッフのサービスもさりげなくて良かった。
 サッカー、アジアチャンピョンズリーグでガンバがホームで大敗した事だけが、ただただ惜しまれる昨夜だった。
そして、今夜は、グランパスが勝ったな、と思っていたら、たった今、延長時間に同点に追いつかれ、悔しい同点となってしまった。これまたホーム戦だ。

2012年3月5日月曜日

卒業

「卒業」という言葉が年中使われて、言い古された感じがする。辞めましたと言えばいいんじゃないか?と思うところを、「卒業しました」と言う。
 それじゃ、私も言わせてもらおうか。「病気を卒業したいです」
 秋入学が、当たり前になると、3月に「卒業」という言葉を想う事もなくなるのかもしれない。

2012年2月28日火曜日

おもしろ話9(となりの患者)

その患者は、夜中に6人部屋に入院してきた。救急から運び込まれたのだろう。ひどい咳が、離れた私の病室まで聞こえてきた。医師が、その患者の意識を確かめるように、大きな声で名前を何度も呼んでいた。「紅(くれない)さん、わかりますか?」「紅さーん」。だか、咳だけが響く。
 紅さんの、 怒号のような咳はその後も続く。風邪が疾患を悪化させるので、病棟の患者はみな、人一倍風邪に注意を払っていた。私はその病室の前を通る度、自分のマスク を確認して、胸をなで下ろすのだった。しかし、紅さんの咳はあっという間に手術を待つとなりの患者にうつり、担当看護師にもうつってしまった。「アイツが 咳をしながらトイレに入って来て、まいった!」「迷惑だよね」と紅さんの咳はみんなの困りものだった。
 私が、紅さんを初めて見たのはやはりトイレで、看護師が押す車椅子の中でぐったりとして、一言もなく目もうつろだった。おそらく、風邪から、腎臓病を悪化させたのだろう。もともと歩けないのではなく、歩けないほどに容態が悪いという感じだった。
 それから数週間たったある朝、紅さんの いる6人部屋から大声が聞こえてきた。「おい!誰か外を見せに連れてってくれよー。3週間も空を見てないんだ!おーい!」叫びは繰り返された。病棟の朝は 戦場のように忙しい。夜勤の看護師が2人で病棟の患者の採血に回って、それが終わらないうちに、カートで入院患者の朝食が運ばれてきてしまう。夜勤の看護師と看護補助者が、大わらわで朝食を1人ひとりの患者の元に運ぶ。

 外に連れて 行けという叫び声は、そんな中だった。私は、こんな時に「空が見たいと言わなくてもなぁ、誰だろう」と呆れながら食事を済ませた。そして歯磨きに向かう途中に、今度はデイルームから「おーい!誰か、部屋に連れて行ってくれ!おい!誰かよー連れて帰れよ!」その声は、空を見せに連れて行けと怒鳴っていた同じ女性の声だ。ちらと、覗くと声の主はあの紅さんだ。車椅子に乗った紅さんが怒鳴りちらしているのだ。余りに煩いので、朝の忙しい中看護師か看護補助者が、空が見えるデイルームに連れて行ったのだろう。連れては行ったが、忙しい仕事に戻る為紅さんを置いていったに違いない。私は、そっと歯磨きに向かった。デイルームからは、紅さんの「誰か、連れて帰れよー、畜生!」という叫び声が続いていた。

(登場人物の名前は仮名です。話がわかりにくいというご指摘をいただきましたので書き直しました。)

2012年2月23日木曜日

となりの患者6

となりの患者が入院してきてまだ間もない時だった。下痢が続いているようで、いつも慌ててトイレに駆け込んでいるふうだった。病室にはトイレがない。古いふるい病棟は、おそらく昭和40年代の建物だろう。廊下を10メートルほど歩き、コーナーを曲がってさらに6メートル歩いてやっとトイレ入り口だ。
 ある日、となりからぷーんとうんこの臭いがしてきた。間に合わなかったのだろう。となりの患者は、急いでトイレに行ったようだった。私もくさい臭いに耐えかねて、部屋を出て廊下に出た。夜中で、各病室の電灯は消され、廊下の灯りも控えてあった。うす暗い中、となりの患者と思われる婦人が戻ってきた。とても不自然な歩き方だった。暗いし、となりの患者の顔がまだよくわからなかったので、となりの人かしら?と、つい、すれ違ってから、振り返ってしまった。すると、お尻まる出しの、すっぽんぽんなのだ。驚いたのなんの。ぎょっとした私は、まさに心臓が止まりそうだった。パジャマの上着は着ている。しかし、ズボンをはいていないのだ。パジャマのズボンを手に持ち、ズボンの足を垂らして、病室側の方の脚に当てて歩いている。ちなみに廊下に面した各病室の扉は全開だ。暗いので、病室から見たら、ズボンをはいているように見える?かもしれない。私が振り返るまで、それと気づかなかったのは、私とすれ違う時は脚の前側(正面)にパジャマのズボンを当てていたのか?
 後のち、となりの患者と私は仲良くなった。70歳半ばのとてもいい人だった。この病院には20年以上通い、しょっちゅう入退院を繰り返しているという話だった。夜中に、トイレに看護師を呼んで、病室に下着を取りに行ってもらうのは悪いと思ったのだろう。勝手知ったる我が家のような病棟、すっぽんぽんでベッドに帰った方がてっとり早いと、入院キャリアもそうさせたのかもしれない。
 となりの患者は、合計6つの病室をつなぐ廊下をすっぽんぽんで歩いたのだ。

2012年2月19日日曜日

白衣の天使は、いる

白衣の天使はいます。
3人部屋で、連日の絶え間ない猛獣のようないびきに、私は心身ともにまいっていた。いびきの犯人は数々おれど、天使が舞い降りたのは、以前、となりの患者3に書いた老婆の時だった。80歳を少し過ぎた感じと書いたけれど、正確には86歳だった。その歳で、体格が良いわけでもなく、よくぞそんな爆音を出せるものか苦々しいこと限りなし。若い人なら、私はとっくに枕を投げつけていたに違いない。
 トイレで、2部屋も離れた病室の婦人に「アナタぁ〜、お気の毒ね」と言われた。は?とした私の顔を見て「私のところまで聞こえるんですよ。すごいイビキが」と言われた。私は、眠れない日々が辛く、思わず涙がでそうになった。「本当にまいってます。一晩中ですから。毎晩」と言った声は震えてしまった。
ある晩もいびきの老婆と私は二人きりだった。猛獣いびきに眠れず、右を向いたり左を向いたりしていた。
すると1時ごろ、「あんこさん、今日2人部屋で一つベッドが空いているの。そこで寝て」優しい小さな声は、看護師の金田さんだった。金田さんの声は、大きないびきにかき消されそうで、絶望していた私は、言われた事が信じられなかった。夢かうつつか?しばらくぼーっとしていた。「二人部屋?」「でも、もう1人の人は静かなの?」金田さんは、「おばあさんでとても静かなのよ」と。
私は、こくんと頭を下げて導かれるまま、その部屋に入った。金田さんに、手を引かれてはいなかったと思うけれど、天使が手を引いて導いてくれた感じがした。病室にたどり着いた私は、正気に戻り、真っ暗な病室でとなりの患者をこっそり覗いた。となりの患者が本当にいびきをかかないか心配になったのだ。ベッドをぐるりと医療機器がとり囲み、ボタン信号がいくつも点滅していて、患者の様子は見えなかったけれど、寝息すら感じられなかった。私は、その晩だけぐっすり眠ることができた。白衣の天使は、おそらく毎晩の猛獣いびきを知っていたのだろう。(登場人物の名前は仮名です)

2012年2月8日水曜日

患者心得7

クリニック(診療所)の看護師は、腐っているか患者サービスに徹底しているかどちらかです。前者は、駅前など好立地のそこそこ繁盛のクリニックにありがちです。そして、経営者である院長が比較的若い場合が多いです。院長のマネージメントがうまく行かず、操縦不能状態なのでしょう。患者を診察室に呼び入れるのに、患者の名前を怒鳴る。診察の際は、壁によりかかりふてくされたように休めの姿勢だったり・・・腐った魚は、再び活き活きしてはきません。クリニックの体質は、患者が減少して初めて変わるものです。

2012年1月26日木曜日

きんかん煮

となりの患者について、とやかく言えるほど、私はごりっぱな患者なのか?
否。醜態、お騒がせは数知れず。例えばこんな事も。
入院中、緩解し、歩けるようになった時、デイルームに掲示される献立表を見て食事を楽しみに待つようになった。季節は秋、献立表にきんかん煮とあった。私は想像した。お砂糖か蜂蜜で煮た、オレンジ色の小さな丸い金柑が、つやつやと光り輝く様を。やわらかい皮が口の中ではじけて、ほろ苦さと甘さがまじり合うその感じを。小鉢の中に、5つぐらい入っているかしら。私はわくわくしながら夕食を待った。そして、6時、運ばれてきたトレーの上の小鉢、中鉢のフタを一つずつ開けていった。「ない!」「きんかん煮がない!」くそ忙しく配膳している看護師さんを呼んで、訴えた。「きんかん煮がないんです」
 すると、おしゃれな看護師の工藤さんが、真剣にとりあってくれて、「本当だ、献立にきんかん煮って書いてある」「きんかん煮って、甘く金柑を煮たのよね。お母さんがよく作ってくれるわ」トレーの上の一品一品のフタを開けて工藤さんも言った「本当にない!」。私は「ごめんね」といいながら、私のお鉢の載ったトレーを撤収する工藤さんに、くっついてナースステーションまで、てくてくと歩き、がっくりと椅子に座た。工藤さんは、私のトレーを机に置くと、献立表を片手に、調理室に電話をしてくれた。「献立表のきんかん煮がない患者さんがいるんです」そして、工藤さんは、なにやら説明を受けていた。そして、工藤さんは、紅潮した顔で私に言った。あんこさん「がんもどきの煮たのを、きんかん煮と言うんですって!」
「すみませんでした。」と何回か言ったけれど、工藤さんの返事はなかった。(登場人物の名前は仮名です)

2012年1月2日月曜日

患者心得6












そこそこの病院で、各診療科に優秀な医師は、たいてい1人と思った方が良い。私が言うところの、そこそこの病院というのは、地域の基幹病院で300床以上 のという感じです。昔の総合病院に近いイメージで、より具体的に言えば、特定機能病院や地域支援病院、三次救急指定病院(特定機能病院はたいてい三次救急指定病院ですが)あたりです。ちなみに、総合病院と いうのは、医療法上は、とっくに廃止されております。医療関係者は、よく承知していると思いますが、マスコミや普通の人は知らないことが多いようなので念 のため。
さて、写真は本題とは全く関係なく、すっかり足が遠のいてしまった横浜の西口ジョイナス前のイルミネーションです。昨年12月30日に 撮影したものです。イルミネーションは、2体ではありません。1体のツリーを思わせるイルミネーションがまばゆいばかりの金色から鮮やかなグリーンに変化す るのです。昨年見たいくつかのものの中では、圧巻の美しさで、横浜も捨てたものじゃないのかと思えたほどでした。
話を戻しますと、病院には、各科にせめて2人優秀な医師がいたらいいなぁと思うのであります。勿論、専門病院は除いてのお話です。

2012年1月1日日曜日

サッカー天皇杯

恒例の元旦決勝戦は、史上初のJ2同士の戦いとなる。
出場するかのようにわくわくしている。
準決勝のセレッソ、FC東京戦での播戸選手の大胆なハンドは、何故か責める気持ちにならなかった。播戸選手のわかりやすいもの言いと、連動しているようで。セレッソのファンではないし、FC東京のファンには怒られそうだけれど。