マックでは再び座ることが許されるようになっている。
緊急事態宣言の後、夜はテイクアウトすらやってなかった時期もあった。夜のテイクアウトが解禁されて、誰もいない店先で立ってコーヒーを飲んだ夜もあった。
座れるようになって、やれやれだ。
自宅以外のたった一つの私の居場所だ。
今のところ密の心配はなく、店内でエア平泳ぎもバタフライも自由に泳ぎ回ることができる。
静まり返った店内では、ずっとブログに綴ろうと思っていたある女のことが、信じられないような遠い昔の事になってしまった。
それは昨年の師走の夜だった。
端に一人の女が座っていたのだけれど、携帯電話で大声で話をしていた。私が、いつものテーブルにホットコーヒーを置いて、椅子を引こうとした時、女の口は、
「300万円も残高がある銀行カードを落としちゃってさ。」と言た。
えっと、驚いたのは私だけでなく、その女と隣り合わせるように座っていた部活帰りの男子高校生5人もそうだったに違いない。
女の声は、吹き抜けの天井にどこまでも響く大声だった。
女の歳は、よくありがちな年齢不詳といった感じだけれど、30代半ばではないだろうか。ふわっとした髪はショートボブだった。
話はどんどんと続いて、その銀行カードは爺ちゃんに預かってもらっていたもので、爺ちゃんがどこかに落としてしまったというのだ。
それで朝から銀行に電話をしたりのてんわやんやだったと。
けれど、それは定期預金のカードだ。と後になって言った。
私は肩を撫で下ろした。
そして、朝7時からマックでずっと仕事をしているとも言った。
なるほど女は、ジャージ姿で、ひざ掛けをかけて座っている。
「私の仕事は、何処ででもできるからさぁ〜。」
今こそリモートワークがコロナで急速に広がったけれど、昨年の暮には、女の何処ででも仕事ができると言うその言葉が羨ましく聞こえた。
そして、東京の家賃は高いから、年が明けたらある九州の町で暮らすとも言った。その町へ何度か下見にも行っていると、町や人々の様子などを語った。
話が次々と展開する中で、電話の相手がこの話が周囲に聞こえているのではないのかと問うているようだった。
女は、「大丈夫、大丈夫、高校生がワイワイやっているからさぁ。」
女の側には、部活帰りの5人の男子高校生だけでなく私もいたわけだ。
けれど、私の存在はその女にスルーされたのだった。
「一人おばさんがダンボの耳で聞いているけどさ」、と大きな声で言われても、それはそれでカチンときたに違いないけれど、 スルーされたのも物足りなく感じた。
その時、高校生達が座っていたテーブルは、今は密を避けるため、座ることを禁ずるステッカーが貼りつけてある。
女は、今のところ預金を取り崩さないで何とか暮らして行ける事、飲みにも月に2回は行けると言った。
そして女が、「飲みに行くのはファミレスだけど、もう少し安い店なら月に3、4回は外で飲めるよ。」と言った時、
高校生たちが一斉に、「寂しいー」と言った。
男子高校生達は、女が言うワイワイやっていると言うのは全くの嘘っぱちで、スマホをいじりながらシーンとしていた。
シーンと黙って、女の話に聞き耳を立てていたのだ。
女は、ついに収入について電話の相手から尋ねられたのだろう。
「前の仕事は、台本1本4万だったけど、今度の仕事は売上
見合いにしたから結構入ると思うんだ。」
台本と言っても、舞台もあれば、テレビやラジオ番組からアニメ、ゲームだってある。
女は、何の台本を書いているのだろう。
そして年が明けて東京を離れて九州の彼の地で今も台本を書いているのだろうか。
そもそもあの夜のマックでの携帯電話が話し相手もなくエアだったと言うこともある。
となると単なるホラ吹き女だけれど、コロナのご時世となっては、客人はマスクを口に当てて座り、ベラベラと大きな声でつばきを飛ばしながら話をする人もいなくなった。
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