喜怒哀楽のうち、怒りと哀しみは積もるものであり、
喜びと楽しさは積もらない。
これは新聞に掲載された、有富健さんの言葉だ。
私は、全くだという以上にこの言葉が心に深く刺さった。
発病してから15年の私の人生がこの言葉に尽きると思ったときに涙が出てきた。
有富さんもまた難病患者であった。
私は、発病から最初の2年間は、ほとんどが入院生活だった。
3度目の入院生活で他の患者さんから、家事サポートなど支援をしてくれるという助け合いの会を紹介してもらって、やっと自宅療養がかなった。
ところが、次々と違った奇怪な症状が始まる。
自宅と言えども4年間近く歩行が困難となった。
股関節の炎症に加えて、骨頭の壊死の疑いがあった。
私の着替えや、私の洗髪や、買い物でくたびれ果てた良人は、休日に車椅子を押して私を外に連れ出す元気すらなかった。
私もまた、車椅子に座っているのも痛みで苦痛だった。
そしてその後、重い光線過敏の症状が始まったのだ。
皮肉にもこの光線過敏の重い症状に驚いた、別の病院の医師が、
通院する大学病院の血液検査よりスクリーニングを上げて、
今の難病固有の抗体を発見して病名が確定した。
股関節の炎症の段階で整形外科の医師は、今の難病を示唆したし、素人ながらにそうではないかと私も思ったけれど、肝心の当時若かった主治医が否定し続けた。今の病名が確定したのは発病から4年ほど経ってからだった。
退院後10年近くサポートをしてくれた助け合いの会が解散となった時には、真っ暗になった。
サポートなしでは、再びの入院生活になってしまうと。
最後までサポートしてくれた方は、法人の解散手続きでいっぱいいっぱいで、次を探してあげられないと言う。
私は、支援してくれる先を必死で探した。
移送サービスで入会しているNPO法人にかけ合ったけれど、けんもほろろだった。3月の雨が降る夜に傘をさして訪ねたのだった。
そんな難病知ったこっちゃないという感じで、「人手がないからどうにもなりません。」とぴしゃりと言われた。
会費だって収めているのに。
この時のことも、忘れたくとも忘れられない哀しい出来事だった。