雨は闇夜を早く連れてくる。
それでも7時半を回ってしまった。
なんとか美容部員のいる間にドラッグストアに入りたかったのだ。
でも、もしかしたら、まだいるかもしれない。
リスのように愛らしくて、色気のある彼女が。
予感は的中、瀟洒なパウダーケースや口紅サンプルが並ぶカンターで、おそらく景品となるであろうグッズを、透明なフィルムの袋に詰めているところだった。
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置地廣場 |
美容部員の彼女は、手を止めてすぐさまカウンターから出てきて、私の愛用の化粧水を出してくれた。
小柄な彼女は、触れたら溶け出しそうで、甘い雰囲気が漂っている。子供の頃から、男の子にモテてモテて、困惑してきた様子が浮かぶような魅力ある女性だ。
そんな彼女に見惚れていると、お店の中央から大きな声が聞こえてきた。
「どこにあんのよー!だから大きいカット綿は!」
その図太い声に聞き覚えがあった。
とし子さんの声だった。
それは私が、こんな厄介な病気になる以前、
乳児期に起きた喘息が再び始まった頃ではあったけれど、
忙しく仕事をしていた時分にお世話になった人の声だ。
とし子さんと言う。
お部屋のお掃除をお願いしていたのだ。
今では、お掃除の1時間の料金が1750円から2500円に上がって、卒倒しそうだけれど、当時は、躊躇もなしに1回5千円でお願いしていた。
「あんこさん、慌ただしくてごめんなさいね。」と言って、
美容部員の彼女は血相を変えて怒鳴り声の方に飛んで行った。
その時、とし子さんが、同じメーカーの化粧品を使っていたことを思い出した。
美容部員は、常客の声だから対応しないわけには行かなかったのだ。
ストアのスタッフと美容部員の彼女が対応するレジで、
とし子さんは怒鳴り続けていた。
幾度も値段を聞き直したり、待たされた苦痛を訴えるのだ。
果たして、とし子さんは私より前に入店して、カット綿を求めていたのだろうか。
その辺りが私にはよくわからなかった。
けれど、カードを渡したかどうかわからなくなっているらしいとし子さんは、「私のカードは?渡したかって聞いてんのよ!」また怒鳴る。
見れば、美容部員の彼女の大きな目が真っ赤になっていた。
とし子さんに最後にお世話になったのは、14年前の春、入院中の生検後に安静に横たわる私の口に食べ物を入れてもらった時だ。
その時は、病気がこんなにも厄介な難病で、再び仕事をする日が来なくなるとは思っていなかった。
そして、それがため私ととし子さんとの縁は切れたのだった。
一度、7年ほど前の夜にスーパーマーケットのお花屋さんで偶然に出会ってはいる。その時、私は自らの事情は話さずに、「お元気で、さようなら」と言って別れた。
けれど、その時のとし子さんは、昔、生保レディで大層稼ぎ、営業所では長くナンバーワンの座に君臨し続けたと言っていただけのことはあって、以前お世話になっていた時のように小綺麗にしていた。
とし子さんは、小顔で、美人と言えるほどではないけれど、整った顔立ちの小柄な女性だ。美容院に二週間に一度はセットに行くほど、身嗜みを気にする人だった。そしてとし子さんは独身だった。
私はためらったけれど、怒鳴るとし子さんの後ろから寄って、
「とし子さん、」と肩を触って声をかけた。
「アンタだれ!」振り向いたとし子さんに昔の面影は遠かった。もはやお化粧もしておらず、浅黒い肌をそばかすが覆っていた。
既に80歳を超えたであろうその姿は、大学病院のベッドに横たわる私をよそに、ハンサムな医者はいないかね、とキョロキョロしていた時とは、別人のようだった。
姉妹の盃を交わしたわけではないけれど、
姉さん、ご無沙汰しております。お世話になったあんこでござんす。姉さん相変わらず、お若くて、42、3にしか見えませんよ。
それが声を荒げてどうなさいましたか、美しいお嬢様方が困り果ててるじゃぁござんせんか。
てな調子で私が喋ると、「待たされたんだよ!」ととし子さん。
私が、「それは、私が横入りしたからですよ。ごめんなさい。」と言うと今度は、
矛先が私に向いて、
「アンタと会えなくなってから、ご覧の通りの顔面神経痛になったんだわよ。」ととし子さんが続けた。
確かに、顔の左側、目から下が歪んでいた。
「ヤブにかかったもんだからさ。あそこは藪だよ、藪!」と更に声は大きくなった。
とし子さんは、つい数年前にも私に「ここいらで、会った。」と言い張る。最近はとても忙しいと言うとし子さん。
けれど、その理由は、
年に3回も4回も転んで、腕、今度は脚と言う具合に骨折を繰り返していて大変なんだと、美容部員の彼女の同意を得るように、
「ねえっ」と言う。続けて、今度、私に昼間に電話をくれると言うので、昼間は寝ているからと私は断って、「お元気で」と言って、手を振った。
とし子さんも、耳がつんざけるほどの大きな声で「お元気で」を何度も言った。
転んだばかりの私は、自分のそう遠くはない未来を見たようで、
なんとも言えない重い気分になった。
次に、スーパーマーケットに入った私は、再び驚かされた。
カートを押す行く手に、この2年ほどお見かけしなくなっていた富美子さんがいたのだ。
富美子さんは昔、お部屋を借りていた時の大家さんだ。
いつか弱ってきたら、人知れず、東京を離れると言っていたので、
ついにそんな時になったのか、と案じてはいた。
富美子さんと向かい合った私は、提灯のように膨らみきった富美子さんの顔に、言葉を失っていた。
面の皮が薄く伸びきって、今にもはち切れんばかりだった。身体もやや太った感はあったけれど、顔の膨らみがそれにはそぐわなかったのだ。
適切な言葉が出てこない私は「富美子さん、お綺麗ね。」を3回も連呼してしまった。
富美子さんは会いたかったと言ってくれて、いつも電話しよかと迷っていたのだという。私もよ、と返して、8月になったら、お茶をしようと言った私はとにもかくにも、独りになりたくなっていた。スーパーマーケットを後にした私は、ドラキュラのくせに生き血を抜かれたように目眩を感じた。
そして、小竹さんのいないであろうカフェに入って、座った。
そのカフェには、ぽつんぽつんと、同世代の二十代の女性が座っていた。私は、肩をなでおろした。