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2012年2月28日火曜日

おもしろ話9(となりの患者)

その患者は、夜中に6人部屋に入院してきた。救急から運び込まれたのだろう。ひどい咳が、離れた私の病室まで聞こえてきた。医師が、その患者の意識を確かめるように、大きな声で名前を何度も呼んでいた。「紅(くれない)さん、わかりますか?」「紅さーん」。だか、咳だけが響く。
 紅さんの、 怒号のような咳はその後も続く。風邪が疾患を悪化させるので、病棟の患者はみな、人一倍風邪に注意を払っていた。私はその病室の前を通る度、自分のマスク を確認して、胸をなで下ろすのだった。しかし、紅さんの咳はあっという間に手術を待つとなりの患者にうつり、担当看護師にもうつってしまった。「アイツが 咳をしながらトイレに入って来て、まいった!」「迷惑だよね」と紅さんの咳はみんなの困りものだった。
 私が、紅さんを初めて見たのはやはりトイレで、看護師が押す車椅子の中でぐったりとして、一言もなく目もうつろだった。おそらく、風邪から、腎臓病を悪化させたのだろう。もともと歩けないのではなく、歩けないほどに容態が悪いという感じだった。
 それから数週間たったある朝、紅さんの いる6人部屋から大声が聞こえてきた。「おい!誰か外を見せに連れてってくれよー。3週間も空を見てないんだ!おーい!」叫びは繰り返された。病棟の朝は 戦場のように忙しい。夜勤の看護師が2人で病棟の患者の採血に回って、それが終わらないうちに、カートで入院患者の朝食が運ばれてきてしまう。夜勤の看護師と看護補助者が、大わらわで朝食を1人ひとりの患者の元に運ぶ。

 外に連れて 行けという叫び声は、そんな中だった。私は、こんな時に「空が見たいと言わなくてもなぁ、誰だろう」と呆れながら食事を済ませた。そして歯磨きに向かう途中に、今度はデイルームから「おーい!誰か、部屋に連れて行ってくれ!おい!誰かよー連れて帰れよ!」その声は、空を見せに連れて行けと怒鳴っていた同じ女性の声だ。ちらと、覗くと声の主はあの紅さんだ。車椅子に乗った紅さんが怒鳴りちらしているのだ。余りに煩いので、朝の忙しい中看護師か看護補助者が、空が見えるデイルームに連れて行ったのだろう。連れては行ったが、忙しい仕事に戻る為紅さんを置いていったに違いない。私は、そっと歯磨きに向かった。デイルームからは、紅さんの「誰か、連れて帰れよー、畜生!」という叫び声が続いていた。

(登場人物の名前は仮名です。話がわかりにくいというご指摘をいただきましたので書き直しました。)

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