細い糸を丹念に丹念にたぐり寄せてくれたあんこさんのおかげで今日このクラス会を開くことができたのです。
と司会の幹事がクラス会のおしまいに、私に花を持たせてくれたけれど、私がやったことと言えばそれだけなのだ。
昨年から暖冬だと思われる暖かい毎日だったのに、
昨日に限って東京は未明から冷たい雨が降り続き、多摩地域北部に住まう幹事の一人は、吹雪の中を出て来たと言う。
冷たい雨の中、藤沢に集ったクラスメイトは最終的には17人、そして恩師も出席してくれた。
会場となったノカテーブルは、野菜にこだわった料理を提供すると言う看板どおり、趣向を凝らした野菜を中心とする料理が美味しく、ゆっくり味わいたい品々だった。
今回は私を含めて幹事は4名だった。
もう日が伸びてきているので、当然のように遅刻した私が着席するとお料理がのった小皿の下に品の良い薄紫色の栞がテーブルにあった。A5サイズのその紙には、出席者の名前とメッセージをくれた欠席者の名前、裏にはクラスメイト全員の名前もあった。この栞と集合写真が納められる気の利いたアルバムタイプの寄せ書きを用意したのは幹事長だった。
全員の名札を用意したのは、司会を務めた幹事だった。名札作りは、ご子息に委ねたのだろうと思ったら、お偉いさんが自ら、印字して、切って、ネームプレートに差し込んで、製作したと言う。
私の雑な案内文章を、二人はいつも「素晴らしい!名文だ!」と褒めそやす。私はその度に、いつもこうやって部下を使っているんだなと思う。
私のザルのような仕事に、手を加えて、非の打ち所がないものに仕上げてくれるのが、もう一人の幹事だ。
こちらは、ああだ、こうだ、違うだろうと言ってこないけれど、
さらりと手が加わっていたり、メールのやりとりのちょっとした間合いや、短い言葉の中に意を感じることがある。なかなか手厳しい。
さて、93歳になる恩師は、幹事長が同行してタクシー送迎を要したものの、しゃんとしてお元気だった。
生徒の私は杖だと言うのに、先生は杖もなく、二つのテーブルを
ちゃっちゃと歩いて移動した。
恩師は、遅刻常習犯の生徒の自宅に毎朝電話をしたと言う話もあるけれど、毎朝自宅まで迎えに来られたと言う話もあった。
私も毎日遅刻していたけれど、私が酷く先生に怒られたのは、教室の一番後ろに机を移動させて、一人でポツンと一軒家のように、授業を受けることだった。
「自学自習」をモットーに放任主義の学校なのに、珍しい先生だと当時の私は、思っていた。今では申し訳なかったと思う。そして、昨年11月末の他のクラスの同期生との飲み会で、恩師と年賀状のやりとりが続いていると聞き、今回の卒業以来初めてのクラス会に先生をお招きすることになったのは、偶然ではない何かが働いたのではと思ったりもする。
高校三年生の青いあの時、教室で、
親しかったクラスメイトは、日本を出て海外で生きて行くと豪語した。
そして、
「貴女はこの地元にしがみついて暮らすだろうから、みんなの連絡委員をやりなさいよ。」と私に言った。
彼女は、有言実行、早くに日本を脱出してアメリカで生きている。
私は、早くに地元を離れたけれど、今、それが定められた運命かのように連絡委員をしている。
今回、溢れ話が一つある。
北海道で教員をしているクラスメイトが、消息不明のクラスメイトの一人をたぐり寄せてくれた。
掻い摘んで言えば、「定期試験がない、制服もないと言う高校だった」と誰かに話たところが、あれあれ、誰かもそう言う高校を卒業したと言っていた、その人の名前は?となって、
その名前がクラスメイトだったと言うことのようだ。
所在がわかったクラスメイトは、北海道からは、遠い本州関東にいて、今回出てきてくれた。
そして、北海道からはるばる上京して来た友人は、土曜日の夜だと言うのに急な仕事の連絡が入って、二次会には参加できなくなった。
今、教員の働き方も問題になっているけれど、やはり大変なんだな。
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