行きたくない。行きたくない。行きたくない。行きたくない。行きたくない。
夜の間じゅう念仏を唱えるように言い続けて、とうとう夜が終わってしまった。
5時を迎える前のゴーちゃん占いでは 、健康運がナンバー1だと言う。
そんな馬鹿な。難病たかりに健康運ナンバー1なんてあり得ないだろ!「ば」に思い切り力を込めてバーカと呟いた。
新たに罹患した難病がほぼ確定するのだ。すっぽかすこともできるけれど、長く患っている難病認定の毎年の更新の時を迎えて、診断書作成の依頼手続きのためにも病院に行かないわけにはいかなかったのだ。
タクシーの無線センターではあんこと言えば、自宅前にピタリと車をつけなければいけないことを承知してくれている。
そうして乗り込んだタクシーの運転手さんは、白髪の物腰の柔らかな人だった。重い曇りが、運転席をちらりと見ることを許してくれたのだ。
丁度一ヶ月前、初めて診てもらった医師は、3月半ばからの奇怪な症状や、長く患う難病の特徴的な症状のキーワードを注意深く聞いていることがコンピューターに向うその背中でも十分にわかった。
若き教授であった。
その時すでに医師には南の海に浮かぶ島の名前のようなその病名が頭にあったに違いない。
私は、語るに尽くせない16年の長い病歴、それは様々な症状がもぐらたたきのように現れて来たことを、A4用紙1枚にまとめている。
誇れるはずもない私の履歴書だ。それと、今の難病を確定したT病院での血液検査データを渡すと、医師は素早くコピーした。
そして、医師は首と顎の間にできたコブを躊躇せずに直ちに触診した。
コロナを心配してか、皮膚科医も腎臓科医も私の訴えにも触診はしなかったのであった。皮膚科医が触診したのは、2回目の受診の時で、なおりゅうとしてあると言ったコブに流石に疑問を抱いたのであろう。
初めての医師は、リンパ節の腫れではなく、顎下腺であると言った。
私が顎下腺?と頭で復唱しているうちに、ズキリとそこに針が刺された。針は重く2回突き刺された。
あっという間に生検が行われていたのであった。
「ちょっと細胞を採りましたからね。」と、それは生検だろうがと私は心の準備もなく行われたことと強い痛みに不満も持ったけれど、「ごめん、ごめん」と言う医師が稀なるダイヤモンド級の医師(患者心得2)であるに違いないと思った。
そして、南の海の島のような病名が告げられた。
確定するには、血液検査と首をぐるりと切らねばならないと言う。
既に抱える難病と同じ自己免疫疾患であるその疾患が残念ながらその医師の専門外であり、×××科であることは私にもわかった。今様に言えば、かつてひどいドクハラを受けた科である。
「治らない病気は診たってしょうがないだろ、治らないんだから」と私は切って捨てられたのであった。
その教授は退官後も相変わらず大学病院に君臨している。
空耳か、幻聴か、微かに音楽が聞こえてきた。
近頃のタクシーの座席の目の前のスクリーンは光がダメな私にとって天敵だから、乗り込むや否や、消している。
「クラッシックかけていますか?」と運転手さんに尋ねると、
そうだと言う。「クラッシックが一番心が休まるからね。」と。
かかっていたモーツアルトの交響曲を大きくしてもらった。
どの楽団もコロナで苦労していることなどと話して、音色に耳を傾けていると病院までは一瞬だった。
16年、通院は歩行が困難であった時代も含めてタクシーで通う以外にないものだから、タクシーを優に300回は利用しているだろう。
けれど、タクシーでクラッシックを楽しめたのは初めてのことだった。つりはいらないと言ったのが僅か40円ばかりのプータローであった。
合理的に考える医師であろうと踏んだ私は、この一ヶ月ひたすら寛解を目指した。例え血液検査で黒であっても、症状が収まってきていれば、首をぐるりと切開するとは言わないのではないだろうか。
私は一ヶ月間、これま
で以上に光を避けたのだ。夜のスーパーマーケットではやはり目の上のコブが大きくなった。スーパーでも人目をはばからずに通院用の巨大な完全遮光の帽子を被った。太陽光を完全にシャットアウトした室内では僅かな灯りも食事を摂る時以外は消灯して暮らし続けたのだ。
それこそ確かなエビデンスはないけれど、奇怪な症状の始まりは、美容室で強い光に2時間半も当たってしまった後であった。
美容室は、快くいつものように夜の施しを許してくれたけれど、4ヶ月ぶりの美容室は補助金も得てコロナ対策に内部改修をしていたのだ。白亜の殿堂となって天井も壁も 真っ白だった。
個別に区切られて白い壁は身に迫っており、ライトを天井に向けてもらったけれど、大胆に反射して眼はとりわけ辛かったのだ。
夜という特別な時間にお願いしている遠慮があった私は我慢してしまった。
翌日は起き上がれず、その次の日に起床すると眼の上に鶏卵大のコブができて瞼が押して視界も狭くなっていた。顔は提灯のように膨らんで、首の上部にもりゅうりゅうとコブができていたのだ。とりわけ白い壁が迫っていた左側の症状が重かった。
いざの受診は、予想どおりの展開となった。
血液検査は残念ながらの黒。生検はやや微妙。眼の上のコブはほとんどわからない位に収まって、顎の下のコブも一ヶ月前よりは小さくなっていたのだ。
首を切るには血管が透けて見えるほどに相当な光を当てて明るくしなければ危険であること、それを今、症状がおさまりつつある中で光線過敏の症状が重い私に行う必要があるかどうか。
首切りは今回は見合わせることとなった。私が一ヶ月前に難色を示した×××科へと言う話もなかった。
まずは、ギリギリのセーフを大喜びで帰宅した。
しかし起床するとまた眼の上が腫れている。
治療も確立していないこの度の難病は、極限られた 大学病院でしか実績もない。光線過敏の症状が重い私は、それらの病院にかかることは困難だ。太陽光はサングラスをしても眼にも危険が及ぶのだ。
綱渡りの綱を揺らされる暮らしが続いて行く。
とりあえず、この土日は、心と体を休めようと思う。
灯りを消して。
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