病棟ごとに看護師のカラーは違うものである。
従って、前回入院した時、看護師さん達がわりと親切だったから、今回もと思うのは大きな間違いである。
前回は消化器で、今回は整形というように、かかる科が異なる場合は、大抵病棟も異なる。各病棟は、師長や主任といった看護要員のトップや実践部隊の指揮官の色に染まるものだ。白衣の天使の組織もあれ?ば、ぐーたらナースの部隊だってあるのだ。
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2011年1月1日土曜日
ぐーたらナース5
隣のベッドの原さんは、毎日食事が摂れないようだった。2人部屋で私が入院した時、すでに原さんはいた。最初は言葉を交わしたけれど、日に日に衰えて行くようだった。そして、隣からため息だけが聞こえてくるようになって、数日すると、原さんは「トイレまでとても歩けそうにないわ」と弱々しいく言った。私が、ナースコールで看護師さんを呼んで付き添ってもらうように言うと、原さんはナースコールを押したようだった。
すると、やってきたのは、おそ松副師長(ぐーたらナース4)だった。おそ松副師長は、原さんの身体を支えるでもなければ、手を取るでもなく、よろめいた原さんは、壁をつたいながら、スリッパをひきずって、恐るおそるという感じで病室を出た。その後、原さんは、なかなか戻ってこなかった。どうしたのだろうと心配していると、賑やかな人の声とともに原さんが戻ってきたが、原さんは車椅子に乗っていた。そしてなんと、驚いたことに、その車椅子を押しているのは、パジャマ姿の患者達だ。トイレの前で倒れているのを、他の患者が見つけ、車椅子を探し、患者3人でなんとか車椅子に乗せて来たというのだ。
おそ松副師長は、原さんをトイレに入れた後、いなくなり、用を済まして出ようとした原さんは、ドアを開けてそのまま倒れてしまったらしい。トイレの隣は、ナースステーションだ。しかも、ナースステーションとトイレはつながっている。一体ナース様達は何をしていたのだろう。(登場人物の名前は全て仮名です)
すると、やってきたのは、おそ松副師長(ぐーたらナース4)だった。おそ松副師長は、原さんの身体を支えるでもなければ、手を取るでもなく、よろめいた原さんは、壁をつたいながら、スリッパをひきずって、恐るおそるという感じで病室を出た。その後、原さんは、なかなか戻ってこなかった。どうしたのだろうと心配していると、賑やかな人の声とともに原さんが戻ってきたが、原さんは車椅子に乗っていた。そしてなんと、驚いたことに、その車椅子を押しているのは、パジャマ姿の患者達だ。トイレの前で倒れているのを、他の患者が見つけ、車椅子を探し、患者3人でなんとか車椅子に乗せて来たというのだ。
おそ松副師長は、原さんをトイレに入れた後、いなくなり、用を済まして出ようとした原さんは、ドアを開けてそのまま倒れてしまったらしい。トイレの隣は、ナースステーションだ。しかも、ナースステーションとトイレはつながっている。一体ナース様達は何をしていたのだろう。(登場人物の名前は全て仮名です)
2010年12月16日木曜日
医者の品格
これまでの私の経験では、医師が他の医師の診断や見解と異なることを言う場合、『私はこうだと思う』というように「私」を必ず始めに言われる。それは、暗に『他の見解もあろうけれど』を含ませているように思う。そして言葉のおしまいは「思う」で終わり断定しない。
あるいは、「○○先生のようなお考えもあるでしょうが」というように一応、相手の医師にも、敬意を払った言葉があったりした。
ところが今回は、医師が他の病院の医師のことを素人と言い、おまけに素人に「め」までつけた。「め」を漢字に当てると「奴」だ。辞書には、人をののしったり、卑しめたりする時に用いるとある。私は、以来その医師の受診をためらっている。
2010年8月9日月曜日
患者心得3
健康な人に病気の苦労をわかってもらおうとするのは、土台無理な話である。
4年前サッカーW杯の時、私は重体になってしまった。幸か不幸か、生き返って、数週間して迎えた誕生日に、友人(親友)から携帯にメールが届いた。
『あんこ、お誕生日おめでとう!どこでお祝いしてるのかな♪』と。
彼女には、入院していることも伝えてある。病名(難病)もずっと以前に伝えてあった。なのにどうしてこんなメールを送ってくるのだろう?文章のおしまいには、ご丁寧に音符までくっついていて、私はがっくりした。
彼女は、カタカナの病名もおいしいスイーツの名前ぐらいにしか、思っていないのだろう。4年前の誕生日から、彼女とのことが、思い出だけになったのだった。
4年前サッカーW杯の時、私は重体になってしまった。幸か不幸か、生き返って、数週間して迎えた誕生日に、友人(親友)から携帯にメールが届いた。
『あんこ、お誕生日おめでとう!どこでお祝いしてるのかな♪』と。
彼女には、入院していることも伝えてある。病名(難病)もずっと以前に伝えてあった。なのにどうしてこんなメールを送ってくるのだろう?文章のおしまいには、ご丁寧に音符までくっついていて、私はがっくりした。
2010年7月15日木曜日
2010年7月14日水曜日
2010年1月18日月曜日
となりの患者3
これまた正確には、となりのとなりの患者だった。80歳を少し過ぎた感じの老婆が入院してきた。病室は、3人部屋でベッドは2床空いたので、一つベッドを隔てて私と老婆は両端になった。
老婆は夜更かしだった。11時半にやっとテレビを消したかと思ったら、まもなく、ぼそぼそと声が聞こえてきた。空耳かと思ったそれは、お経だった。
そっとカーテンを指で開けると、老婆はベッドの上に座っていた。老婆もカーテンを閉めているが、ベッドの灯りで、シルエットが映っているのだ。お経は、10分程度唱えられ、終わると直ちに、「ゴー、ゴー」と猛獣の鳴き声のようなイビキが鳴りやむことなく続いた。
その後も、お経は、連日連夜続いた。お経を唱え終わると、疲労と満足感でいっぱいいっぱいになるのか、老婆は、ばさーっと倒れ込むように眠り、高いイビキが始まる。0時近くに始まるお経といい、80歳の高齢者のイビキとは思えない猛獣のようなイビキといい私には大迷惑だった。
老婆の手術が明日に迫った晩は、すさまじかった。お経が始まったかと思うと、ギシギシとベッドのきしむ音が同時にしている。私は、怒りと怖い物見たさから、思わず目の前に垂れるカーテンを指でそっとよけて老婆の方を見た。「ナンマンダー、ナンマンダー、ナンマンダー」繰り返されて、お経も佳境を迎えたようだった。ベッドの灯りでオレンジ色に染まったカーテンに映る老婆の上半身は、上下に激しく揺れている。それと一緒にベッドも揺れている。一心不乱にお経を唱える老婆は、さながら祈祷師だ。
その日のお経は、いつもより15分の延長戦となった。そして翌日の手術は無事すんだのだった。従って、お経を止めるはずもなく、それどころか、一層気合いが入って、その後もお経といびきは、続いたのだった。
老婆は夜更かしだった。11時半にやっとテレビを消したかと思ったら、まもなく、ぼそぼそと声が聞こえてきた。空耳かと思ったそれは、お経だった。
そっとカーテンを指で開けると、老婆はベッドの上に座っていた。老婆もカーテンを閉めているが、ベッドの灯りで、シルエットが映っているのだ。お経は、10分程度唱えられ、終わると直ちに、「ゴー、ゴー」と猛獣の鳴き声のようなイビキが鳴りやむことなく続いた。
その後も、お経は、連日連夜続いた。お経を唱え終わると、疲労と満足感でいっぱいいっぱいになるのか、老婆は、ばさーっと倒れ込むように眠り、高いイビキが始まる。0時近くに始まるお経といい、80歳の高齢者のイビキとは思えない猛獣のようなイビキといい私には大迷惑だった。
老婆の手術が明日に迫った晩は、すさまじかった。お経が始まったかと思うと、ギシギシとベッドのきしむ音が同時にしている。私は、怒りと怖い物見たさから、思わず目の前に垂れるカーテンを指でそっとよけて老婆の方を見た。「ナンマンダー、ナンマンダー、ナンマンダー」繰り返されて、お経も佳境を迎えたようだった。ベッドの灯りでオレンジ色に染まったカーテンに映る老婆の上半身は、上下に激しく揺れている。それと一緒にベッドも揺れている。一心不乱にお経を唱える老婆は、さながら祈祷師だ。
その日のお経は、いつもより15分の延長戦となった。そして翌日の手術は無事すんだのだった。従って、お経を止めるはずもなく、それどころか、一層気合いが入って、その後もお経といびきは、続いたのだった。
2009年12月16日水曜日
棺と遺影
ついに日の入りが1日1日と延びてきてしまった。日の入りが1分ごとに短くなっていた時は、毎日踊りたいほどわくわくしたけれど、今は「あーあ」とため息をついている。
今年も病に明け、病に暮れていくけれど、特に光線過敏が辛かった。光線過敏になって初めての6月は、一年のうちで一番紫外線が強いということを身を持って知った。遮光一級のカーテンを通り抜けて入り込む紫外線が、足の皮膚もぼろぼろにした。朝4時に日焼け止めを塗るがため、昼夜全く逆の生活となった。カーテンを完全遮光のものに替え、隙間という隙間を塞いだけれど、ほんの小さな、点のような隙間からも光が漏れ入り、やられてしまう。結局、完全遮光傘を2本広げて、傘が転がらないように押さえて眠る。実際はよく眠れない。12月の今でもそうやって暮らしている。
紫外線を完璧に防いで眠るには、遮光棺桶に入るしかないのだ。寝返りのできる大きめの棺桶。日が落ちて真っ暗になったら蓋を開けて、生きかえるという感じだ。来年は少し早いかもしれないけれど、そんな棺桶を用意するしかないだろうと真面目に考えている。
それより、遡って2月、絶望的な病名を医師に告げられ、何ヶ月か心の整理がつかなかった中で、遺影を用意しておかなければと思った。勿論そんなもの撮りに行けるわけもないが、今の写真なんかご免だ!10年、いや15年前の写真の中で気に入ったものにしようと思った。親分(「おもしろ話7となりの患者」)に遺影のことをメールに記すと、
「昔の写真は駄目よ!おばあさんが亡くなって、遺影が若い時の写真で、お焼香にきた人が間違えたと思って帰ってしまったという実話があるのよ」と。かく言う親分は、4年前にそれ用に撮影したという。昔の写真の是非はともかくも、長く患っている親分もやはり死ぬことを覚悟しているのだなぁと思った。
しかし、遺影は、実物の何倍も綺麗な写真にしたい!となると若くて元気はつらつだった頃のという事になる。一応ピックアップはした。約10年前のを。少し後ろめたいような・・・・歳を鯖読んでいるような。
そんな事を考え続けていて、好きだった女優の大原麗子さんが亡くなった。遺影は42歳の時のということだった。20年以上前の写真だ!私の遺影、白いコーヒーカップを持ち、白い帽子にお気に入りだったジョルジュレッシュの紺色のワンピースを着て笑っている。今から10年前の写真。これでいいのだ!
今年も病に明け、病に暮れていくけれど、特に光線過敏が辛かった。光線過敏になって初めての6月は、一年のうちで一番紫外線が強いということを身を持って知った。遮光一級のカーテンを通り抜けて入り込む紫外線が、足の皮膚もぼろぼろにした。朝4時に日焼け止めを塗るがため、昼夜全く逆の生活となった。カーテンを完全遮光のものに替え、隙間という隙間を塞いだけれど、ほんの小さな、点のような隙間からも光が漏れ入り、やられてしまう。結局、完全遮光傘を2本広げて、傘が転がらないように押さえて眠る。実際はよく眠れない。12月の今でもそうやって暮らしている。
紫外線を完璧に防いで眠るには、遮光棺桶に入るしかないのだ。寝返りのできる大きめの棺桶。日が落ちて真っ暗になったら蓋を開けて、生きかえるという感じだ。来年は少し早いかもしれないけれど、そんな棺桶を用意するしかないだろうと真面目に考えている。
それより、遡って2月、絶望的な病名を医師に告げられ、何ヶ月か心の整理がつかなかった中で、遺影を用意しておかなければと思った。勿論そんなもの撮りに行けるわけもないが、今の写真なんかご免だ!10年、いや15年前の写真の中で気に入ったものにしようと思った。親分(「おもしろ話7となりの患者」)に遺影のことをメールに記すと、
「昔の写真は駄目よ!おばあさんが亡くなって、遺影が若い時の写真で、お焼香にきた人が間違えたと思って帰ってしまったという実話があるのよ」と。かく言う親分は、4年前にそれ用に撮影したという。昔の写真の是非はともかくも、長く患っている親分もやはり死ぬことを覚悟しているのだなぁと思った。
しかし、遺影は、実物の何倍も綺麗な写真にしたい!となると若くて元気はつらつだった頃のという事になる。一応ピックアップはした。約10年前のを。少し後ろめたいような・・・・歳を鯖読んでいるような。
そんな事を考え続けていて、好きだった女優の大原麗子さんが亡くなった。遺影は42歳の時のということだった。20年以上前の写真だ!私の遺影、白いコーヒーカップを持ち、白い帽子にお気に入りだったジョルジュレッシュの紺色のワンピースを着て笑っている。今から10年前の写真。これでいいのだ!
2009年11月5日木曜日
となりの患者2
これまた正確には、となりのとなりの患者だ。山田さんは、60歳近い明るい婦人で、小さな不動産会社の女社長だった。若々しいのに、耳が遠かった。入院初日の夜、医師が病の状況を説明に来た。医師は、周囲に聞こえないようにとの配慮もあったろう、小さい声で話し始めた。山田さんは、「えっ!」「えっ!」と大きな声で聞き直す。山田さんが聞き直す度に、医師の声は1トーンずつ大きくなって、ついに3人部屋の病室じゅうに、説明がなされたようになった。「私、そんなに悪いんですかぁ〜」
聞きたくない話が否応なく耳に入ってくる。そして、山田さんの号泣する声。病室に重い空気が流れた。その夜、隣の慧子さんと私はいつもの会話もなく、2人とも無言だった。私は胸がしめつけられる思いで、ただただベッドの枠の格子を見つめていた。
立ち直りが早いと自ら言う山田さんは、翌日には、大きな声で、苺の白ワイン煮、○○ェのおはぎの美味さについて語った。私の声は、山田さんには届かないので、真ん中のベッドの慧子さんがいつも通訳をした。
ある日、通訳の慧子さんが、入浴に行ってしまった時だった。山田さんが「あんこさーん、教授回診は何曜日だっけ?」と聞いてきた。私はおなかに力を入れて大きな声で「カー(火曜)、キン!(金曜)」と答えた。
そして、山田さんは言った「ありがとう。ゲツ!モク!ね」と。
(登場人物の名前はすべて仮名です)
聞きたくない話が否応なく耳に入ってくる。そして、山田さんの号泣する声。病室に重い空気が流れた。その夜、隣の慧子さんと私はいつもの会話もなく、2人とも無言だった。私は胸がしめつけられる思いで、ただただベッドの枠の格子を見つめていた。
立ち直りが早いと自ら言う山田さんは、翌日には、大きな声で、苺の白ワイン煮、○○ェのおはぎの美味さについて語った。私の声は、山田さんには届かないので、真ん中のベッドの慧子さんがいつも通訳をした。
ある日、通訳の慧子さんが、入浴に行ってしまった時だった。山田さんが「あんこさーん、教授回診は何曜日だっけ?」と聞いてきた。私はおなかに力を入れて大きな声で「カー(火曜)、キン!(金曜)」と答えた。
そして、山田さんは言った「ありがとう。ゲツ!モク!ね」と。
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