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2021年4月21日水曜日

マックにて


時は遡って弥生もおしまいの夜のこと。
誠に不思議なことがありました。
ヘルパーさんに桜の様子を尋ねると、花びらを掃くのに一苦労だと言う。
そう聞くと、諦めていた染井吉野がやはり気になってきた。
どうにもかったるかった身体は、喘息発作のために仕方なく吸入を再開したステロイドのせいか機械に油がさされたように動くようにはなっていた。
それがステロイドの怖いところでもある。
ワームムーン
 
 
おもてに出てみると、大きな月が待ち構えていた。
ほどなく、月光に照らされたこぶしの花を見つけることができた。
こぶしの花は、16年もの長い間見つけることができなかった。
こちらに引っ越してから迎えた春に、数えきれないほどの花をつけたコブシの大きな木を、母と私で時間が止まったように見上げて愛でたのでした。
もしやコブシの木は なくなってしまったのではないかと思っていました。
開花のタイミングに合わなかったのでしょう。
入院していた春も2度ほどありましたし、歩けずに外出が叶わなかった春も3度ありました。 

 
 
たった一輪でも、思いのあったこぶしの白い花で心がいっぱいになった私は、桜の方へは向かわずにマックへ向かいました。
途中、お花屋さんにはいくつもの大きな箱が次々に組み立てられて、それは小悪魔的なマジシャンの女性がすっぽり中に入ることができるほどのもので、組み立てる女性スタッフがそんなふうにも見えました。
しみじみと、コロナ禍でも年度末なのだなと実感した瞬間でもありました。


暑い夜でしたので、アイスラテを注文しました。
口渇が酷く、アイスラテのエムと声に出すのも難儀です。
コーヒーは爛れた口内に刺激となって痛むので避けてのラテ。
渇いた口に、アイスラテを流し込みたいと心は急くのですが、マスクの下に挟んだティッシュが唇にこびりついて、コロナの折に指で剥がすにもためらいました。
席を立って指の消毒に励み、唇にへばりついたティッシュと格闘した後に、ようやくつーっと冷たいカフェラテが口内に広がった時、初めてほっとしたのです。

 
ああ美味しい、と広がる吹き抜けの空に目を向けていると
 「これどうぞ」と男の声がしたのです。
腫れたリンパで首を回すのも容易ではない私は、身体ごと声の方に向きを変えると私のラテのカップの近くに、チョコレートの小さな箱が既に置かれていました。

 
 びっくりした私は、チョコレートを見て、男を見上げた。
立憲党首の20年前という感じに似た男で、
「コーヒだけは良くないと思って、チョコレートを買ったのですが、甘くて」
男の言葉が続いたので、私は慌てて膝のハンカチの上に置いていたマスクをかけた。
「甘いのはお好きですか?」
私は、答えずにあっけに取られて男の顔を見ていた。
一体どういう神経だろう、このコロナのご時世に。
いやいやコロナでなくとも知らない人に、食べる物をどうぞとは。
見れば、男は白い不織布のマスクを着けてはいるけれど、小旗がはためくように、話すたびに息がぷくぷくマスクの脇から押し出されているじゃないか。
ははん、衛生観念が希薄なヤツなんだな。
「もし、お嫌いだったら、誰かにあげてもらってもいいですから。」
なんだって?私が誰かにこのチョコレートをあげて、その誰かが死んでしまったら、私は殺人の容疑者になるんだよな。
私は、警察の取り調べ室で、 知らない人にもらったと言ったって、
刑事に首根っこを掴まれて「見え透いた嘘を言うんじゃないよ!」と怒鳴られるに違いない。
だいたいこの男は、マックの常連なのだろうか。広い店内の、池の縁に並ぶ縁石のように座っている一人なのだろうか。
残念ながら、近眼で薄暗い店内にかける遠い人々の顔が私には見えないのだ。
羊のおばあさん、おしゃべりインコ、根雪色のセーターのおじいさん、温泉旅館の番頭さん風情のおじさん、じゃれあう高校生のカップル、それぐらいしか私のマックメンバーには登録されていないのだ。
では、常連の誰かが、チョコレートを差し出してきたら、有難うと私は食べるのか?それだって怖い気がする。
 


 男が去った後、私はチョコレートを見つめた。
そうして、顎の下にりゅうりゅうと膨らんだコブにそっと手を当てた。殴られたように腫れた瞼は、サングラスと帽子で見えないかもしれない。布袋様のように膨らんだ頬はマスクで隠れて、顎の下の大きなコブは上の方からはわからないのかもしれないと思いながらアイスラテを飲み干した。
 


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